物質を構成する分子は1ナノメートル(1ナノメートル=10-9メートル)より小さい原子よりなっています。分子には数個の原子より構成されるナノスケールの分子から、生体の構成要素であるDNAやタンパク質のような巨大分子が存在します。すなわちナノの世界から生体系さらには地球を含む宇宙まですべてが化学という学問の対象です。20世紀前半に誕生した量子力学は、ナノの世界が私たちの通常体験する物質世界とは異なる科学法則によって支配されていることを明らかにしました。一方、1953年のワトソンークリックによる二重らせん構造の提唱以来、生命科学は著しい発展を遂げ、前世紀の終わりにはついにヒトの遺伝子もほぼ解読されました。今日では多くの生命現象が分子レベルで理解されています。また、時を同じくしてなされたさまざまな分析機器の進歩によって、ナノスケールの世界を直接見ることも可能となってきています。これらの進歩は、分子の働きと同時に、分子の持つ多様な機能を明らかにしてきました。必要な合成法の急速な進展も手伝い、さまざまな機能を持つ分子が創出されました。生体反応をつかさどる酵素などのタンパク質の構造も次々に明らかにされ、その機能発現のメカニズムが解明されるにつれて新たな創薬が可能となりつつあります。この結果多くの病が克服され、難病と呼ばれている病気の治療にも近い将来での治療に展望が開け始めています。このように衛生状態が改善され、快適で豊かな現代の生活も、化学の進歩なしには実現しなかったはずです。
しかし、分子の多様な性質は現在の化学でも完全に理解することが困難です。例えば、分子は他の分子をどのように認識するのか、分子が単独で存在する場合と会合した状態では物性にどのような違いが生じるかなど、分子科学の基礎となる分野の理解が未だ十分ではありません。また、生体系で目的の分子が効率的に合成されているのと異なって、化学合成では未だ十分な効率が達成されていません。エネルギー変換においても、現在の人類が達成できるエネルギー変換率は、太陽光を有効利用する植物に比べ、せいぜい10分の1程度でしかありません。また、分子の特性に関する知識の不足や不完全な合成法の利用は、知らぬ間に有害な物質を生み出したり、産業廃棄物の増大などをもたらすなど、限りある地球資源とかけがえのない環境への脅威となります。現在の地球は我々の世代だけのものではなく、次世代、次々世代へと引き継いで行かねばなりません。限られた資源を私たちの世代で浪費し、環境を破壊することは許されません。
豊かな地球環境を損なうことなく次世代の人々に伝えていくためには、物質の特性を理解しその能力を最大限に活用し得る新たな化学の開拓が必要です。そのためには原子や分子、さらにはその集合体の物性の発現機構をより深く理解し、安全で無駄のないより高度の物質科学を創出し、持続可能な文明社会の基盤を構築することが不可欠です。
このような社会的要請に応えるべく、化学部門では分子および原子や分子集合体の化学理解を深化させるとともに積極的な利用を可能にする新たな化学の開拓を目的に研究を進めています。
分子レベルでは不安定化学種、反応活性種、さらには分子認識に関して理論および実験の両面から積極的な研究を行ない、物性発現の機構の本質的な解明を目指すとともに環境破壊要因を除去することや、新しい治療薬開発のための知見を集積しています。また、金属錯体の分野ではその溶液内挙動を詳細に解析するとともに、新規錯体を構築して新しい電子物性・電子機能材料の開拓を進めています。さらに水からの水素発生による新たなエネルギー源の獲得、生体系に匹敵する革新的な合成法の導入、光機能材料の開発など、世界で最先端の研究成果を収めています。地球全体における物質循環の機構を解明する試みなど未知の分野にも挑戦しています。
これらの研究成果を通して、次世代にも配慮した持続型文明の実現に貢献することをめざしています。