ヒト免疫不全ウイルス(HIV)の遺伝子は驚異的な多様性を示します。この多様性をもたらす原因の1つとして、多重感染が注目されています。多重感染のメカニズムはウイルス感染実験により調べられており、その様相が明らかになりつつありますが、定量的な理解はいまだ確立されていません。数理生物学研究室の伊藤さんらの研究グループは、細胞の感受性が細胞ごとに不均一であることへ着目し、感受性の連続的な分布を取り入れた数理モデルを構築しました。ウイルス感染実験から得られたデータを数理モデルで解析することで、HIV 多重感染数が負の二項分布に従うことを示し、感染細胞集団中での多重感染細胞の割合は最大40%であることを明らかにしました。研究成果は Scientific Reports に掲載されました。なお、本研究はフランス国立保健医学研究機構(INSERM)の Fabrizio Mammano 教授との共同研究としておこなわれました。
ヒト免疫不全ウイルス(HIV)による HIV 感染症は世界三大感染症の1つであり、その感染者は世界で累計6000万人にものぼると考えられています。HIV 感染症の根治に向けた治療が盛んにおこなわれており、病気の進行を抑えるまでに至っていますが、完全に克服するには多くの課題が残されています。この治療を妨げている要因は、HIV の遺伝子が持つ驚異的な多様性(遺伝的多様性)にあります。
近年、HIV へ多様性をもたらす原因の1つとして多重感染が注目を集めています。HIV は宿主の細胞へと侵入し、自己の遺伝子を複製しながら増殖します。生成された子ウイルス達はやがて細胞外へと放出されます(図1)。感染過程では複数のウイルスが1つの細胞へ同時に感染することもあり、この現象は多重感染と呼ばれています。多重感染が起こるとウイルスの遺伝子組み替えが複雑になるため、遺伝的多様性が効率的に助長されます。さらに、ウイルスが遺伝子を複製するときにエラーが生じており、突然変異した種も誕生します。このように遺伝子組換えと突然変異が繰り返されることで、様々な遺伝子をもつ HIV が爆発的に生み出されます。宿主内で生成されるウイルスの数は1日に十億個から百億個ほどであり、そのうち変異ウイルスは数万個から数十万個にも達すると言われています。
HIV へ遺伝的多様性をもたらす原因は複数あるため、その中で多重感染がどれほど効くかを捉えることが重要です。例えば「多重感染の頻度はウイルスの組み合わせによるのか」や「宿主の免疫は多重感染に対してどのようにはたらくか」といった疑問が湧きますが、これらの疑問へ答えるためには多重感染を定量的に理解する必要があります。伊藤さんらの研究グループは培養細胞へ HIV-1 を感染させる実験をおこない、その結果を数理モデルで分析することで多重感染の本質へと迫りました。
2種類の蛍光タンパク質 HSA(赤色)と GFP(緑色)を用意して、それらを HIV-1 に組み込むことでウイルスに目印を付けました。作成した赤ウイルスと緑ウイルスを培養細胞へと感染させる実験をおこないました(図2a)。フローサイトメトリーという手法で細胞を分類したところ、細胞は4つのグループ「A: 赤色ウイルスのみに感染、B: 両方のウイルスに感染、C: 未感染、D: 緑色ウイルスのみに感染」に分けられました(図2b)。
多重感染の起こりやすさを定量的にみるためにオッズ比(OR)を導入します。赤ウイルスへの感染と緑ウイルスへの感染に関連があるかを調べるには、次の2つの割合を考えると便利です。
オッズ比は (1) と (2) の割り算
OR = (1) ÷ (2)
で与えられます。OR = 1となる場合は、赤ウイルスへ感染したかどうかは緑ウイルスの感染に関係がないといえます。実験で得られた細胞の割合からオッズ比を計算してみると、OR > 1 となりました。つまり、赤ウイルスと緑ウイルスの感染が互いに関連していることを実験結果は意味しています。このように、実験では感染現象の全体的な傾向を知ることができます。しかし、ウイルスや細胞単体の特徴を捉えることは容易ではありません。例えば「オッズ比が1より大きいことは細胞やウイルスのどのような特性に起因しているか」という問いや「細胞1つに侵入するウイルス数やその感染頻度はどの程度か」といった問いに答えることは簡単ではありません。
実験から得られる感染細胞の割合は、細胞1つ1つの感染が積み重なった結果です。したがって、細胞ごとの感染過程が分かれば、実験結果から逆算することでウイルスや細胞の性質を推定できます。伊藤さんの研究では細胞ごとの感染が確率的におこると考えて、数理モデルを用いた推定を行いました。
特に細胞がウイルスを受け入れる度合い(感受性)へ着目しました。培養細胞の中にはいろいろな感受性を持つ細胞が存在するという細胞の感受性の不均一性を考慮しました。具体的には、赤ウイルスと緑ウイルスへ感染する回数をそれぞれnHSA回、nGFP回とすると、感染がおこる確率は数式(図3の前半)で表現できます。実験で観測される感染細胞の割合は、それぞれの確率をnHSAやnGFPについて足し上げたものとして計算されます(図3の後半)。このように、「ウイルスや細胞の性質を表すパラメータ」と「実験で測定できる量」とが直接結びつけられます。実験データを再現するようにパラメータを決定することで、多重感染の定量的な性質を引き出すことが可能となります。
感染実験のデータと数理モデルの結果を図4に示します。図2で述べたように、細胞を4つのグループ A から D に分類しています。実験で得られた細胞の割合は棒グラフで描かれています。図4cを見ると、ウイルス量が増えるにともない未感染細胞グループ C の割合が減っており、多重感染グループ B の割合は増加しています。数理モデルによる計算結果は誤差付きの点で記されており、数理モデルはすべての実験データを系統的に再現しています。この数理モデルでオッズ比を計算したころ、OR > 1 となり実験データと良い一致が得られました。したがって、伊藤さんらの構築した数理モデルは多重感染現象の本質を表現しているといえます。
構築した数理モデルをもちいて感染現象を細胞単位で分析しました。まずは細胞の感受性がウイルス感染におよぼす影響を調べました。細胞に侵入するウイルス数と感染頻度との関係を図5aに示します。感受性の不均一性を考慮した結果を、緑ウイルスの場合 (緑線) と赤ウイルスの場合 (赤線) で分けて描いています。感受性を一定とした結果は黒線で記されています。感受性が不均一であると、ウイルス数の多い感染が10倍ほども起こりやすくなっています。この結果を確率論的に説明すると、「HIV の多重感染は負の二項分布に従う」とまとめることができます。一般には感染現象というとウイルスが主役として捉えられがちですが、宿主側の要因もまた重要であることが理論的に示されました。
次に、細胞1個に侵入するウイルス数と多重感染の起こりやすさを調べました。図5bから見て取れるように、感染細胞のうち大部分が1個のウイルスに感染していることが分かりました。ウイルス量の最も多い実験では全体の細胞のうち感染細胞は18%を占めており、その中の実に40%が多重感染であると分かりました(図5b)。
伊藤さんらの研究で興味深い点は、HIV 多重感染という「ウイルス現象」を細胞の感受性の不均一性という「宿主側」から捉えたことにあります。この着眼点にもとづいて数理モデルを構築し、細胞1個に侵入するウイルス数やその感染頻度を実験データから引き出すことに成功しました。
次のステップとしては、多重感染の動態を調べることが期待されます。多重感染は HIV 感染者の体内で継時的に生じています。その結果として遺伝的多様性が実現していると考えられています。伊藤さんは、HIV-1 多重感染による遺伝的組み替えへの影響を真に評価することへ意欲を示されており、多重感染の動的挙動の解明に取り組むと語られていました。
数理モデルの強みである定量化・現象の可視化・予測を武器に、感染症・臨床医学への実装に取り組んでいきたいと思います。
大学時代にフィリピンでの国際ボランティア活動を行っていました。その時に感染症で苦しむ人々を目撃したのが契機で、自分の専門を武器に感染症制御や医学に貢献しようと研究を行なっております。
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