ビスフェール A (BPA) はプラスチックの原料として広く利用されています。ところが近年、BPA がヒト核内受容体へと結びつき、内分泌かく乱物質として毒性をもつことが指摘されました。そこで様々な BPA 類似物質が代替として用いられていますが、それらの反応を実際に調べた実験はまだ数えるほどしかなく、BPA 類似物質が生体におよぼす影響はよく分かっていません。そこで構造機能生化学研究室の枡屋宇洋さんと松島准教授らは、127 種類もの BPA 類似物質について女性ホルモン受容体 α 型との結合を系統的に調べ上げました。5 種類の化合物が、女性ホルモン作用の阻害剤であることを新発見しました。4 つの阻害剤には三環系ビスフェノールという共通構造がありました。この構造が阻害剤として好まれる理由を分子ドッキング法から裏付けました。より根本的な理解へ向けて、DV-Xα 法という第一原理計算をタンパク質系へと世界で初めて適用しました。以上のような基礎研究は、乳がんのような女性ホルモン依存がんの治療薬につながると期待されます。研究成果は Scientific Reports に掲載されました。
ビスフェノール A (bisphenol A: BPA) とよばれる化学物質は、ポリカーボネート樹脂やエポキシ樹脂などのプラスチックの原材料として広く使われています (図1)。
ところが 1990 年代に BPA の低用量作用による有害性が指摘されました。マウスによる実験では、BPA の摂取がごく低濃度であっても前立腺肥大などの成長上のリスクが現れたり、キレやすい情動を示したりするという報告がなされています。とくに胎仔や幼体においては、脳・神経系にも悪影響を及ぼすことが懸念されています。一方で、少量であれば人体には影響がないとすると報告もあり、BPA が有毒かどうかの真偽については世界各国でいまだに白熱した議論がおこなわれています[1]。
BPA はどのようにして身体へ作用するのでしょうか。近年の研究によると、BPA が細胞内に取り込まれると、核内受容体というタンパク質に結合して、内分泌かく乱物質 (いわゆる環境ホルモン) としてはたらくことが分かってきました。内分泌かく乱物質とは、いうなれば自然界における「外来種」のような存在です (図2)。
外から来た生物がもともとの生態系を乱してしまうように、内分泌かく乱物質が核内受容体へ結合すると、天然ホルモンと同じような作用を誘発したり、逆にホルモン作用を阻害したりして生体に悪影響を及ぼします。
BPA はさまざまなヒト核内受容体を標的にします。たとえば、乳がんと密接に関係している女性ホルモン受容体とは、弱く結合することが古くから知られています。もっとも強く結合する受容体は、女性ホルモン関連受容体 γ 型とよばれるもので、天然ホルモン並に結合することが知られています (図3)。異物センサーとして免疫を司る構成的アンドロスタン受容体やプレグナン X 受容体とも結合します。
これほどに多様な結合があることを鑑みると、BPA は核内受容体グループに好まれるような特定の「部分」を持っていることが予想されます。さらに視野を広げてみると、BPA と似た「部分」をもつ化学物質 (BPA 類似物質) も核内受容体と結合しやすいのではないかと推測できます。それらは私たちの身体にどのような作用を及ぼすのでしょうか。『毒薬変じて薬となる』ということわざが示すように、BPA 類似物質をうまく選べば、身体に害のあるホルモン作用を抑制したり、益のあるホルモン作用を引き起こしたりすることもできるのではないでしょうか。
BPA の類似物質には 20 万種類ほどもありますが、核内受容体との反応が調べられているのはたった数種類に限られます。そこで松島准教授らは、127 種類もの BPA 派生物質とそれらに関連した化合物について、女性ホルモン受容体 α 型 (ERα) との反応を系統的に調べ上げました。すると意外なことに、ある 5 種類の化合物では女性ホルモン作用を阻害するはたらきがありました。乳がんにおけるがん細胞の増殖は、女性ホルモン作用をきっかけとして起こると考えられています。したがって、本研究における阻害剤の発見は、乳がんの新薬につながる革新的な成果であるといえます。
本稿では、これらの阻害剤を見つけるに至った 3 つの実験と、分子ドッキング法による理論的な分析をご紹介いたします。また、DV-Xα 法 という第一原理計算によって核内受容体との結合要因を解明しようという世界初の試みについてもご紹介いたします。
まずは BPA 類似物質の中から受容体 ERα と結合しやすいものを絞り込みました。放射標識したリガンド[2]による競合結合試験をおこないました (図4)。
すると半数以上 (70 種類) もの化合物が受容体 ERα と結合していました。そのうち 21 種類の化合物 (図5) は、ビスフェノール A と同じくらいか、それよりも高い結合能を示しました。このような結果から、『ビスフェノール A と似た「部分」を持つ化学物質は受容体 ERα と結合しやすい』という推測を裏付けることができました。
受容体と特に結合しやすい 21 種類の化合物 (図5) は、 遺伝子転写[3]にも大きな影響をあたえると考えられます。そこで HeLa 細胞[4]によるレポーター遺伝子試験をおこない、それらの化合物が生体内でどう作用するか調べました (図6)。
21 種類の化合物それぞれを HeLa 細胞へと注ぎ入れたところ、13 種類の化合物で遺伝子の転写が活発化していました[5]。一方で、残りの 8 種類では弱い転写活性しかみられませんでした。8 種類の化合物も受容体 ERα と強く結合するのに、遺伝子の転写活性へほとんど影響しないというのは不思議に思えます。この結果はいったい何を意味しているのでしょうか?
松島准教授らは、8 種類の化合物の中に、女性ホルモン作用の阻害剤が含まれていると考えました。その真偽を確かめるべく、天然の女性ホルモン作用がこれらの化合物で抑制されるか調べました。女性ホルモン E2 によって遺伝子転写を活性化したところに、21 種類の化合物をそれぞれ加えたところ、図7 のような活性の変化が見られました。
驚くべきことに 8 種類のうち 5 種類の化合物において、活性が大幅に抑えられていました。やはり 8 種類の化合物の中には女性ホルモン作用の阻害剤が含まれていたのです。
阻害剤の分子をじっと眺めると、共通点があることに気が付きます (図8)。Spirobicromane を除くと、どの阻害剤も 3 つのベンゼン環が縦にならんだ構造 (三環系ビスフェノール構造) を一部に持っています。これは偶然でしょうか? それとも本質的なものでしょうか?
受容体の活性化を分子レベルで見つめることで、三環系ビスフェノール構造の本質へと迫りました。受容体 ERα は、リガンドなしでは不活性だと知られています。リガンドが結合し、ある立体構造 (活性配座) を取ってはじめて活性化します。もしリガンドの代わりに三環系ビスフェノール類が結合したとすると、活性配座が乱されるように思えます。こういった分子の重ね合わせを議論するには、分子ドッキング法によるシミュレーションが有効です。
X 線回析のデータから活性配座になる場合として「ビスフェノール AF + 受容体 ERα」の結晶構造が分かっています。この複合分子の結晶構造に、阻害剤のひとつ (ビスフェノール P) をドッキング[6]してみました (図9)。
A 環や B 環はビスフェノール AF とほぼ重なっており、受容体になじんでいました。しかし、C 環 (フェノール環) は受容体のアミノ酸側鎖 H524 と衝突していました。一方、不活性な場合として「ビスフェノール C + 受容体 ERα」の複合分子にもドッキングしてみると、アミノ酸側鎖と衝突することなく収まっていました。ほかの阻害剤についてもシミュレーションをおこなってみても、同じように活性配座におけるアミノ酸側鎖のみを妨害していました。つまり三環系ビスフェノール構造は受容体と結合しやすいような部分を持ちながら、活性配座だけを妨げる末端を有しており、まさに阻害剤として望ましい骨格であるといえます。
理論的な分析には、まだ課題が残されています。分子ドッキング法では、受容体という巨大なタンパク質の形を結晶構造から取っており、受容体は「動かないもの」としています。実際には、受容体と BPA 類似物質とが互いに作用しながら、ダイナミックに結合するはずです。とくにハロゲンを含む BPA 類似物質では、ハロゲン結合という新たな現象が加わり、より多彩な複合体が現れると期待されます。もし理論計算によって複合体を予言することができれば、思ってもみなかった効能をもつ新薬への道が開けるかもしれません。このような動機のもと、松島准教授らは無機化学でよく使われている第一原理計算 (DV-Xα 法)に注目し、DV-Xα 法を「受容体 + BPA 類似物質」の複合体に応用するという全く新しい手法を提案しました (計算の詳細については こちらをご覧ください)。
ビスフェール A (BPA) は、工業製品の原材料として汎用されています。ところが近年、BPA が内分泌かく乱物質であるという負の側面が明らかになりつつあり、「BPA やその類似物質」と「ヒト核内受容体」との結合が注目を集めています。それらの反応を実際に調べた実験はまだ数えるほどしかなく、BPA 類似物質が生体に与える影響はよく分かっていません。
そこで松島准教授らは、127 種類もの BPA 類似物質について女性ホルモン受容体 α 型 (ERα) との結合能を系統的に調べ上げました。その結果、5 種類の化合物が「女性ホルモン作用の阻害剤」であることを発見しました。乳がんにおけるがん細胞の増殖は、女性ホルモン作用をスイッチとして起こります。したがって、それを OFF にする阻害剤の発見は、乳がんの新しい治療薬につながる重要な成果です。
阻害剤には共通点があり、どれもが三環系ビスフェノール構造を有していました。この構造が好まれる理由を分子ドッキング法で分析したところ、A 環と B 環が受容体と高い親和性をもち、残りの C 環が受容体の活性配座を乱していることが分かりました。三環系ビスフェノール構造は、まさに阻害剤として望ましい骨格だといえます。
さらに将来を見据えた研究として、純粋な理論計算のみから「受容体 + BPA 類似物質」を予言する新しい手法を提案しました。無機化学でよく用いられる DV-Xα 法をタンパク質系へと応用しました。この新手法が今後どのような発展をみせるのでしょうか。その動向から目が離せません。
最後に松島准教授から読者の皆さまへ向けたメッセージをご紹介いたします。
『私達は理学部で基礎研究をしています。基礎研究は「これに役立つ」とはっきり言えるものとは限りません。しかし、それらを応用し、新しい研究開発の礎 (いしずえ) となる大切なものです。今回も、女性ホルモン受容体に結合する化学物質の構造に興味を持って調べる中で、偶然に薬の開発に役立つかもしれない三環系ビスフェノール構造を見つけました。私達が理学部で行う基礎研究は、きっと幸せな未来に繋がると信じています。』
短時間のうちに、効率よく計算を進めるために、研究室の学生共用の計算機やモニタなどを自分の机の周りにかき集めました。黒色の機材が私を取り囲んでいる様子は、さながら「要塞」のようだと研究室内で言われていました。優先的にモニタなどを使わせてくれた研究室の仲間に感謝しています。
Note:
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